最近

年が明けた。辰年なので景気付けにクリスタルドラゴンと呼ばれる日本酒を飲んだ。帰り道では理由のない焦りに襲われ、電話で恋人と話しながら今すぐ消えてなくなりたいと思った。私はこれを7年続けている。馬鹿らしいが、抵抗するのにも諦めがついた。みなさん、ありがとうございました。

自分のために文章を書かなくなり、長い月日が経った。かつては自身の文章こそが自身の本質で、作文を通して精神が実体化すると信じていたが、今はもう違う。自分に本質などなく、実体化する必要もない。そして、この感覚が芸術から私を遠ざけている。画面上の映像も、人の発する言葉も、自分が撮った写真も、すべてがぼんやりとしてはっきりと見えないのだが、繭に包まれているみたいで悪くない。小学校の教室で飼っていた蚕の、繭の中で死んでいった姿を思い出す。

鬱こそが明晰な思考だと言う人もいる。私は、人間が幸福を感じる方法の一つが愚かさに徹することだと考える。評価や競争から逃れる手段なのかもしれない。母親の胎内に流れる時間の緩やかさ。時折、記憶の中を手探りでごちゃごちゃとかき回して、思い出を手に取って、光に当てて遊ぶ。

想起

 最近確信したことがある.私の言う確信とは単なる思いつきにすぎないのだが,それでも重要な事実に辿り着いてしまったような気がする.それは自分が想起の中に生きているというものだ.
 休日に娯楽として映画を見たり,旅行に行ったりする.ただ映画や旅行自体は何一つ快くない.楽しい気分である方が稀だ.慣れない状況への適応に神経を使う.悲しいことに疲れが好奇心を上回るようになりつつある.ただ,それらの行為にはまだ,お気に入りの食事や,アルコールの類,セックス,そういったルーチンワーク的な報酬とは異なる,一回性の輝かしい価値があると思う.実際に物事を体験している間ではなく,想起によって価値が発揮されるようになる.ふと映画の印象的な一場面だとか,旅先の日差しを思い出すことは,今生きている時間軸と合わさって生活に多層性を持たせてくれる.現代社会に生きるとは,この多層性を生きるということだ.ある場所からある場所へ物理的にではなく,精神的に移動すること.そして自分自身が存在しない層がなければならない.例えば,推しやアニメ,映画,小説などのフィクション,旅行が該当する.自分の役割はなく,観察者としての自由がそこにはある.娯楽として特にフィクションや旅行が好ましいと感じるのは,継続が不要で簡単に消費ができ,始まりと終わりがわかりやすく,自身の解釈を収束させやすいからだ.この簡易さのおかげで,硬直的な現実に目を背け,暗闇の中を生きることができている.
 

祖母

 ここは見知った町の寂れた高台のような場所だ。地域全体の無秩序な建築物と自然物が一望できるように、過去の記憶や思念が立ち並んでいる。弱い風が吹くこともあるだろう。訪れるたびに少しずつ景色は変わって行くがそれに気がつくことは稀だ。

 祖母。

 祖母は重要な人物である。社交的、厳格な意味で社交的、かつ非社会的、反社会的ではない。祖母は祖母の祖母の家で育てられた。兄弟はたくさんいたが、祖母だけが祖母の祖母の家で育てられた。それなりに裕福で、戦後の地方の公立小学校で綺麗な服を着ているのが恥ずかしかったという。中学校に入れば、学年でも評判の美人だった。ここでのちの祖父と同級生になる。高校は女子校に入学した。夢見がちなロマンチストで、大学に入るまで友達がいなかった。女子大で何をしていたかは明らかになっていない。アルバイト先の百貨店でガラスのショーウィンドウを割る。就職した会社をあっさりと退職する。英語教師をするが生徒に舐められ挫折。ギャンブルの才能が発覚し、ギャンブラーになる。この間にいつのまにか祖父と再会し父が生まれている。30歳を過ぎたあたりで煙草を吸い始める。ハイライト。ハイライトのストック、祖父の要人との記念写真、ひどく乱れた部屋、埃っぽい空気、これが祖父母の家の原風景である。勤め人ではなかったようだが、掃除が大の不得意で、私が物心ついた頃には、美貌を失った事実を直視したくないからと写真撮影を拒否するようになっていた。

 祖母は曖昧な記憶を辿って数々の魅力的な話を私にしてくれた。旅、食事、もっと些細な何か。幼い頃には簡単な英語のレッスンのあとに薄暗い喫茶店に連れて行ってくれた。もちろん煙草を吸っていた。コーヒーは飲めなかったが、祖母のコーヒーのフレッシュをスプーンで混ぜようとする私に、ある俳優はコーヒーにフレッシュを落としてゆっくりと自然に交わっていくのを見るのが好きだと語っていたと繰り返し口にするのだ。7歳に通用する美学ではない。

 私は今、明るく健康的な喫茶店でコーヒーを頼んでいる。もちろん全席禁煙だ。ブラックなのでスプーンは必要ない。まだこの町には、液体を急いでかき混ぜる女児と、それを咎める老女がいる。

花見

 人と桜を見た。いわゆる桜の名所と言われる場所でゆっくりと歩いた。井の頭公園。目黒川。隣にはいつも美しい女がいた。美しくて、冴えていて、芸術の素養があって、体の弱い女たち。儀式的に写真を撮る。慣れない一眼レフよりもiPhone13の方が上手く撮れる。カメラを持つのをやめようと思う。水面がちらちらと光っている様子が好きだ。木の枝が桜の花びらをせきとめる。頭を沈めて垂直になる鴨。散る花びらを追いかける子供。花を見ている間、話すことはあまりない。人混みの煩わしさと情景の美しさが交互に押し寄せる。花見に誘ったのは私だ。最近は季節の存在が面白い。一回性と周期性のつながりが感じられ、人生をいじらしく思うことができる。

 何人かの知り合いが彼氏と別れていた。愛し合っていた二人がそうでなくなり、離れることを選ぶ。人は空白を抱え出す。すべての関係性が、偶然の積み重ねの上に成り立っており、簡単な言葉の選択ですら絶対的な不可逆性を孕んでいる。また同じ景色を見ようとしてもそれは叶わない。

 「次、夏に会えるかな」と聞いたら、曖昧に微笑まれた。後ろの桜は夢のように明るい。その光に吸い込まれるようにして、抱えていた空白が息をし始める。

 

題名

 数日暖かい日が続いたが、また気温は下がった。帰り際、駅前広場の夜風はアンクルソックスが覆うことのできない足首を冷やした。空を見上げると、無意味にネオンがリングを駆けている。この広場が竣工したのは2019年だ。
 2019年頃からよく見かける、駅の住人。いつもは飲んだくれてうわ言を呟いているのだが、珍しく河出書房の文庫本を姿勢よく手にしている。驚き、目配せをするが、住人にとっては何十万人といる利用者の中の平凡な通行人にすぎない。皆が同じものを見ているが、皆互いのことは見ていない。

・できないことをできると言わない
 これが存外難しい。少なくとも、自己というフィクションを生きるのに必要な麻薬だ。できないことがしたい、それはなぜか?できると何が嬉しいのか。尊敬される、感謝される、承認の先に待つ谷底。社交、そして桁の定まった額のお金、消費。常日頃、報酬系が積んでいるエンジンの大きさを比べてみたりする。慎ましい女風呂で、胸の大きさ順に並んで髪を洗っている光景。彼のはなんてパワフルなんだろう。寝不足かコロナか二日酔いかわからない体調不良に、他人のエンジン音が耳に障るけれど、猥語をいくつか呟けば気は落ち着く。鏡でクマと肌荒れと浮腫んだ皮膚を見る。見せる相手がいないことに憩い、口をゆすぐ。

・答えを忘れるような質問 
 虚無に耐えかねて、質問をすることがある。幼稚園の頃、迎えのバスを待っている間に、オブジェの岩石を這う虫を執拗に観察していた。あの感じ。居合わせた人間と、世界線が何一つ交わらなかったとしても、手がかりを掴もうとする。しかし、質問の回答はおろか、質問したこと自体を忘れている。この行為を通して、当たり屋のような印象を持たれ続けてきた。
 周囲の若い人間は、みな美しく成長したように見える。

 甘味が感じられるようにと、薄く水で割ったウイスキーはきれいな黄金色だった。机の上で埃をかぶっている眼鏡の縁の淡いゴールドに似ている。ゴールデンレトリバーの毛並みもほうふつとさせた。そうはいっても実際に目にしたことのあるゴールデンレトリバーはたったの一匹だ。代々木の狭いマンションで商われている犬カフェのたしかメスで、元気がなく視線が定まっていなかった。数時間ほど滞在したが、一度も吠えなかったし、立ち上がらなかったと思う。あれから動物と接するのが後ろめたくなったような気がする。10年近く経った今では、厚かましくペットを飼っているが、それにしてもなお。

 試験が終わった。試験が終わるたびにここに何かしら残している。今回の試験は壮観なほど出来が悪かった。原因と対策とかは社会みたいで野暮なのでここには書けないけれど、心から笑える、まあちょっと深刻そうな顔で心配もされる出来だった。毎度、授業開始時刻の直前まで課題に追われる私に「大変な課題なんてせいぜい数か月でしょう、それを頑張れないやつがこの先何十年とある社会で頑張ばれるわけがない」と言い放った彼は、設計課題の提出物が学科の優秀作品に選出されて、教授陣と全学年の聴講者の前で発表をした。プライドと努力の人なのに、プライドと努力の人だからか、名誉を受けても誇りを覗かせない。その様子にいつも拍手を送りたくなる。ベッドの中でZOOMに接続されながら、負け惜しみの笑いを堪えるのが大変だった。

スケジュール

 歯医者と精神科のダブルブッキングをした上に、どちらの予約の存在も忘れていた。

 自分のことをマゾヒストだと思うのは、暴力的なセックスを好むからではなく、歯医者の診療に恐怖を覚えたことがないからだ。口の中に器具を突っ込まれていると興奮すら覚える。

 しかし、予約の存在は忘れていた。なぜなら、予約当時あらゆるスケジュールの記録を諦めていたからだ。手帳カバーの人工皮革の質感に苛立つようになって、開くことをやめた。iPhone純正のカレンダーは見にくかった。小指の爪ほどのキャパシティしか残されていなかった頭には、新しいカレンダーアプリに慣れる余裕がなかった。

 最近、iPadに手帳のアプリを入れた。Apple Pencilを使って手書きで記入することを前提とした作り。限りなく紙の手帳に使い心地が近く、気に入った。約半年ぶりに、スケジュールを記録することができたのだ。

 日週月とページを切り替えて、予定を書き入れる。試験の日。レポート課題の締め切り。バイトのシフト。友達と会う予定。歯医者の予約。未来が実体を持つようになり、試験が終わったらしたいことを余白に書き込んだ。部屋の模様替え。明日はオニオングラタンスープを作れたらいいな。

 この手帳アプリを来月にも習慣的に開けているかは疑わしいのだが、ひとまずはこれでいい。