最近

年が明けた。辰年なので景気付けにクリスタルドラゴンと呼ばれる日本酒を飲んだ。帰り道では理由のない焦りに襲われ、電話で恋人と話しながら今すぐ消えてなくなりたいと思った。私はこれを7年続けている。馬鹿らしいが、抵抗するのにも諦めがついた。みなさん、ありがとうございました。

自分のために文章を書かなくなり、長い月日が経った。かつては自身の文章こそが自身の本質で、作文を通して精神が実体化すると信じていたが、今はもう違う。自分に本質などなく、実体化する必要もない。そして、この感覚が芸術から私を遠ざけている。画面上の映像も、人の発する言葉も、自分が撮った写真も、すべてがぼんやりとしてはっきりと見えないのだが、繭に包まれているみたいで悪くない。小学校の教室で飼っていた蚕の、繭の中で死んでいった姿を思い出す。

鬱こそが明晰な思考だと言う人もいる。私は、人間が幸福を感じる方法の一つが愚かさに徹することだと考える。評価や競争から逃れる手段なのかもしれない。母親の胎内に流れる時間の緩やかさ。時折、記憶の中を手探りでごちゃごちゃとかき回して、思い出を手に取って、光に当てて遊ぶ。