想起

 最近確信したことがある.私の言う確信とは単なる思いつきにすぎないのだが,それでも重要な事実に辿り着いてしまったような気がする.それは自分が想起の中に生きているというものだ.
 休日に娯楽として映画を見たり,旅行に行ったりする.ただ映画や旅行自体は何一つ快くない.楽しい気分である方が稀だ.慣れない状況への適応に神経を使う.悲しいことに疲れが好奇心を上回るようになりつつある.ただ,それらの行為にはまだ,お気に入りの食事や,アルコールの類,セックス,そういったルーチンワーク的な報酬とは異なる,一回性の輝かしい価値があると思う.実際に物事を体験している間ではなく,想起によって価値が発揮されるようになる.ふと映画の印象的な一場面だとか,旅先の日差しを思い出すことは,今生きている時間軸と合わさって生活に多層性を持たせてくれる.現代社会に生きるとは,この多層性を生きるということだ.ある場所からある場所へ物理的にではなく,精神的に移動すること.そして自分自身が存在しない層がなければならない.例えば,推しやアニメ,映画,小説などのフィクション,旅行が該当する.自分の役割はなく,観察者としての自由がそこにはある.娯楽として特にフィクションや旅行が好ましいと感じるのは,継続が不要で簡単に消費ができ,始まりと終わりがわかりやすく,自身の解釈を収束させやすいからだ.この簡易さのおかげで,硬直的な現実に目を背け,暗闇の中を生きることができている.