ようこそ

仲の良い友人がショックを受けていた。男の子が同級生の女の子に対して可愛い子ランキングを作ることに耐えられないそうだ。彼女は女子高に通っていた。女子高が何から女子を守っていたのか知るときが来たんだろうか。胸が熱くなる。いやそれでも性的な好奇心があれば知ってしまえたと思うけれど、なかったのだろう。なんて素晴らしいことだろう。いつかは私も彼女と同じように悲しんでいたが、それに傷つく自由をいつの間にか忘れてしまっていた。残酷な側面をできるだけ見ないようにする。これはよく生きる、楽に生きる、苦しまないように生きるために有効な手段だが、その深い悲しみは同じ方法でこの瞬間も生まれている。

可愛い子ランキングを作ることの一体何が問題なのか。社会では常に評価を下し下され、部分的には共有もされる。スクールカーストという使い古された語句も身近だ。しかし、スクールカーストとは比べ物にならないほど邪悪に感じるのは、牛肉の等級付けのような非対称性が存在するからだろう。人間は牛を食べるが、牛は人間を食べない。牛がいくら人間に味を評価されることに憤り、人間を評価しようと試みても、人間を食べだしたり、評価基準である「味」を見つけ出したりはしないのだ。