シロノワール、ミニシロノワール、目的

日曜日にコメダ珈琲に行った。渋谷駅から真っすぐに道玄坂を上り切って首都高が大きく空に架かるところ、小さなアパホテルに隣接するコメダ珈琲だ。昼時だったけれど、自分の遅刻のせいでまともな食事をする時間はなかったので、そこそこ立派な軽食を求めていた。コメダが見えたあたりからぼんやりとシロノワールが頭に浮かんでいたが、メニューを見て期間限定の商品と食事に目を通したあと、やはりシロノワールに決めた。そして、連れの友人はミニシロノワールに決めた。ミニシロノワールを食べる人の前でシロノワールを食べることは、道義に触れるような気がして、時間がないのに注文を躊躇った。そうは言っても他に食べれるものがなかったし、ミニにしたらお腹が空いて悲しくなるだろうと思ったので、仕方なくシロノワールを頼んだ。ある人と食事をする。それは決断の連続だ。

飲食店でランチをするとき、分け合う前提もない関係性で、同じメニューを頼むのに抵抗はあるだろうか。あったりなかったりすることだろう。問いかけの逆の役割を演じること、いつの間にか演じていること。先月はジュリエットだったのに、昨日はロミオだった。会話における役割の相対性。

シロノワールとミニシロノワールが実際に運ばれてくると奇妙な満足感があった。

シロノワールを食べ始める。後半は苦しかった。柔らかなパンを口に押し込む。思い返すと、あの人工的なサクランボを食べ忘れたような気がする。

ここ最近、誰に何を話したか記憶できなくなってきたので、「これ話したかな?」と事あるごとに聞きながら何かを話した。もう思い出せない。面白くない話をしているのは確かだった。面白い出来事などない。思い出される出来事と思い出されない出来事があるだけだ。

友人を目的地まで見送り、一人で坂を下って三十分くらい歩いた。昼の繁華街に閉じる無数の扉、これまでもこれからも開けることのない扉の向こうを見ようとしていた。渋谷は苦手だ。しかし、かつてはそうではなかった。